カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

当たり前のレベル

毎度思うこと。当たり前のレベルの話。

自分がよく言う「当たり前のレベルが高い人が好き」っていうのは、ほんとうにそうだと今でも思っているし、それは揺らぐことはないのだろうけど、

その当たり前の定義って何だろうって

感じていて、自分が産まれた環境とか、育った価値観の違いから、人の当たり前って変わっていくのかもしれないと感じた。

結構、

「なんで、こんな当たり前のことができないんだろう。」

そう感じていることが時々あっても、もしかしたら、違うベクトルで俺は誰かから

「なんで、こんな当たり前のことができないんだろう。」

そう思われているのかもしれない。

ここで言う当たり前、っていうのは、全然知識とか技術とかそういうものじゃなくって、ただ単純に礼儀だとか、マナーだとか、少し気を遣えば誰だってできることのことなんだけど。

別に特別な知識や技術がいるわけじゃなくて、

「これ、相手の立場だったら、自分はどう感じるかな」

だとか

「これ、相手はちゃんと把握してるかな、理解してるかな」

とか、相手の気持ちを1秒でも考えれば、誰だってできるようなレベルの話。

別に、それができない人を責めるわけでもないし、別にいいんだけど、でも、俺は完璧主義でもなんでもないけど、こう思われているって自分が少しでも知覚されると堪らなく嫌だなとなる。

で、俺の最大の他人への誉め言葉は「育ちいいね」だし、最大の罵倒は「育ち悪っ」となっている。

こんなこと書いていて、俺が一番できていないのかもしれない。自分の得意な範囲のなかでしか当たり前ができていないし、その当たり前がズレてる世界では自分の当たり前は絶対に通用しないし、むしろそれが異端となって蔑まれる。非常に面倒なシステム。

 

別に人に流されるとか、自分が自分じゃなくなるとかまず置いておいて、まず、ちゃんとした、しゃんとした人間として、確実にちゃんとした「育ちのいい」人間になりたいし、そうすることが最大の親孝行なんじゃね?と思ってる。

当たり前のレベルは棒グラフで表されるんじゃなくてレーダーグラフなんだな~って最近すごく感じるので。つい。