カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

SNSのない時代に生まれたかった論

まず、この話とは全く無関係になるのだけれど、最近「「俺の持論」という番組を某チューブでたまに見てて、人前で自分の論を思うように展開できるのがすごいと思う。論調はどうあれ。

 

さて、結構前の記事の話になる、「SNSのない時代に生まれたかった」話。そもそもの個人的な備忘録として、生きるための哲学として、始めたこの文の塊から、自分が何かを忘れないように、大切なモノだけは取りこぼさないように、定期的に読み直して自分を見つめなおすのが大切だなと思っているから。

 

SNSない時代に生まれたかったなんて、お前が言うんじゃないよ。そういわれても仕方ないような生き方をしている自覚は間違いなく在る。ただ、そうじゃない、こうして便利になった世の中でも、やっぱりSNSだけは、間違った成長を遂げてしまったんだと思う。

 

いつから、SNSという場所は、現実世界と区別境界なくなってしまったのだろうか。インターネットは、1ミリも動かなくても、世界中いたるところ隅々までいろんな人とコミュニケーションができるまでの可能性を秘めてしまっている大規模なものになった。なのに、関わるのは自分と知っているコミュニティのみ、だ。それがいい部分で影響しているのかもしれないが、それについて、個人的に嫌だと感じる部分が幾つかある。

 

まず1つ、「プライベートとフォーマルの境界も無くなってしまったこと。」やるやらないの話は別にして、ある種24時間知人とかかわり得る手段ができてしまったことは、ある意味での一人の時間をとうに消し去ってしまった。誰かと常に一緒にいないと辛くて仕方ない。そういう人にはむしろ好都合なのかもしれないが、常に自分と向き合う、ただそれだけの瞬間が欲しい人にとっては苦痛なのだろう。人間というものは、やはり他者がいるいかなる状況において、ありのままに100%いることは不可能だ。これは断定できる。自分に正直に完全に生きられないで、(本人が意識の内なのか無意識のうちなのかはここでは論外として)現実でかかわっている相手を意識した表現、ことばの使い方になってしまっている。これほど悲しいことはほかない。例えば、好みの話になるが、私が好きな音楽のほとんどは、「誰か見えるようでわからない、でも儚いけどそんな大切な誰かに向けて、この声が届くかわからない、けど伝えたい。」みたいな裏テーマがある儚い曲に惹かれてしまう。読み物も音楽も、9割は世間、社会に向けて放たれた芸術家たちの魂の叫びで、それが多くの人の心に警笛を鳴らす。

自分のコミュニティが狭いゆえの無知なら申し訳ないが、やはりSNS投稿は、「特定のある誰か」に向けた、見えない「空リプ」的な要素が含まれたものが多い気がしてならない。その当事者は、それでうれしいかもしれないけど、残りの99%、他の人間はそれを見て何が楽しいの?って感じてしまう私は卑屈なのだろうか。自分もそうで反省することもまあまああるけど、やはり、誰か知らない人に向けて、儚い何か自分が自分たる叫びというものを、ネットワークの網のどこか片隅でもいいから、ぶちまけたいと思う。

 

2つ目、私は元来、狭いコミュニティでいわゆる「内輪ノリ」的なものが苦手である。確かに仲のいい人と盛り上がるのは楽しいのだが、それはそこにいる皆が心置きなく楽しめる話題のほうが絶対にいいと思うからだ。5人でいて、4人が知っている話をしたとき、あの残った1人の気まずさといったらないのだ。たとえ自分が4人のほうにいたとしても、残りの1人のほうを気にしてしまう。そういう馬鹿正直さがほんとうに融通が利かないなぁと心詰まる限りなのだが。だから、正直自分の知っているコミュニティでしかイキれないやつは詰まらないやつだと思っているし、それを隠す気はない。じゃあそいつが面白いなら今すぐ芸能界に飛び込んで売れっ子になってくれと、そういいたい。だから、ある意味での「執着しなさ」だとか「こだわらなさ」だとか「孤独の楽さ」だとかいろいろ思うところがあって、そういった思考のなかから今の人生観が自分のなかでは生まれている。

 

3つ目、「貴重であることが嬉しい」という感情が消失してしまうと思うから。きっと、人を堪らなくいとおしいと感じるのは、「その人と会えない、触れ合えないとき、その人を想ってしまう時間」があるからだと思っていて。今は恋人なんていつでも連絡取れる。さみしくなればSNSで過去ログなんか見たりしてとか、いろんな紛らわし方がある気がする。でも、ちょっと俺の不得意科目だからうまいこと言えないけど、例えば、顔見た目性格まんま一緒のどタイプの女のコがいて、唯一の違いが、ネットつたいの連絡力が非常に強いか弱いか、の差だったとする。

例えばデートをする。午前10時、駅前で。連絡ができれば、きっと連絡を前の日とかしちゃうだろう、楽しみだねとか、どんなとこいこっか、とか。もし連絡ができなかったら、どんな服着てったらいいかな、とか、どうすれば喜んでくれるかとか、めちゃめちゃいろいろ「妄想」するはずで、その妄想が多分だけどめちゃ大事になるって思ってて、あえない時間、一緒に入れる時間が限られているからこそ、「その少ない時間をよりもっと大切にしたい」と思えるのでは、なかろうか。いや、ないのか?きっと、いつでも会える手軽さって、どこかで飽きがきてしまうのかなとか考えるし、その人を知りすぎてしまうことって、逆に嫌な部分も見つけてしまうことだと思ってて、意外とそれで幻滅したりすると思う。恋愛談になって気持ち悪いなってそろそろ思ってきたから一般化するけど、ちょっとまえに読んだ本で、すっごく気に入っているエッセイのなかに、

「思い出される人間になるな。どうしても忘れられない人間になれ。」

って言葉があって、SNSの投稿をみるたびに認識されるような人間じゃ、正直価値なんてそれまでで、ほかの人が、ふとした拍子にそいつのこと考えちゃうような、再生知名の強い人間になりたいなって死ぬほど思ってる。他人の記憶にこびりついて、抜こうとしても離れられないような強烈なインパクトのある人間になりたいと心から思っている。その人のことが好きだったら猶更。好きでなかったら別にいい。テキトーにふるまう。逆に嫌われてても絶対に印象を残してやる。それを、毎日毎日扉たたいて顔出すっていう手法もありかもしれないのだけれど、会って、帰り際に強烈にインパクト残して、次会うまで絶対に忘れない、いや、何も考えてないだけでも思い出しちゃうような、そんな人のほうが面白くない?で、個人的にそこで思うのは、そこでする「妄想」って絶対面白いんだよね。人と会えないからこそ、次あった時こうしようとか、いろいろ考えちゃって、それが案外楽しくて。今はSNSが、24時間会ってないようで実はつながってるみたいなことが起きているけど、それでもやっぱり、全くかかわっていない「間」ってものがあるからこそ、人と人との関係性てのは面白く構築されるんじゃないかなって思ってしまうのだな。

 

まあ、ここまで話してきても、今自分のSNSのスタイルは変えるつもりもあんまりないし、別にほかはほかでやってくれって思っているし、

 

でもこれだけは、勘違いしたくないのは、やっぱり自分のSNS投稿の在り方は

「自分の表現したいことを、表現したいときに、いつでもどこでもつぶやけて、それを誰かが共感したり、ふふってなって。そんな、自分の何かの叫びが遠いどこかの誰かの気持ちに変化を起こしてくれる場所」

としての投稿でありたい。まだこれが最適解かはわかっていないのだけど、どこかプチ芸術家気分を味わえるひとつの素敵なコンテンツなんだと思う。だから、媚びたくない。そうなってるときは、逆にやつれてるんだろうな。