カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

ヒョウカ

何かを叫びたい。

叫びたい。叫ぶっていうものは、本質的には自由で、本能的で、野性的なものなんだろうが

それは、何故かわからないが、悲しいことこの上なく、もう不自由なものになってしまった。

不自由とは?

それは、ある種の圧力

僕のまわりにとりまく人間がどうこう評価をするから

私がもつステータスにどうこうの軋轢があるから

拙者が今ある環境にこういった現状があるから

 

いろいろあって、叫ぶことが出来ない。

叫ぶことが出来ないことは、本能的な意味での死を定義する。

 

 

"私は、生きたまま死ぬのが怖くて、泣いたんです" (米澤穂信氏著『氷菓千反田えるの言葉より)

 

 

少なくても、人間は誰しもそう。何か思っていることをどこかで喉先まで出ても、飲み込んで生きている。

それが美徳なのか?果たしてヒトとしての美しさ成り得るのか?

自分自身は、どんなに周りに染められてしまっても、それについて、ノーと言い続けていい人間でいたい。

それができない環境下にいるのなら、今すぐにでも脱したほうがいい。

ひとりでいる恐怖への葛藤と、ひとりでいないことによる不自由の恐怖への葛藤と。

 

感情的になるのは自分らしくないけど。

そういったことへはうるさく、執念深くいるべきだ。

難しい所は、そういったジレンマに悩まされながらも、それでもいい顔して生きている自分の一部は、常にどこかで存在して休まずに生きていること。

労わってあげられるのは自分だけなんだよな。

 

恐らく、紀元前から自己と他者の違いをヒトは認識して、今まで数多くの天才がその難題に挑み、志半ばで死んでしまって、すべての一部となってしまった。

そのなかで自分も抵抗できずに死ぬんだろう。

それを悲しいと思うのか。仕方ないとあきらめるのか。

知らんけど、難しいのはいいことだね。

 

誰がどうこう言ったとしても、それはそう。

俺がどうこういっても、それでしかない。

 

変な話してるのは自覚の範疇だが、そういうことだ。感性を研ぎ澄ませて感じてほしい

 

都合のいい所で解釈をうまく変えられるのが人間の悪いところ且ついい所だ。

面白く生きられるかは当人次第だ。

だからこそ、都合よく自分勝手に自己中心的に他者排斥的に毎日テキトーに過ごしてれば、毎日は短調で面白いように勝手に進んでいくから。毎日が平日だ。

 

考えすぎるのならば、いいことを考えすぎた方がいいし、忘れるのなら、どうでもいい糞みたいな悩みがすっと忘れた方がいい。

 

だから、都合よく生きていけばいいんだね。自分が主人公で回りがNPCの人生なんだから、自分の選択肢は自分のコントローラーだけで操作できる環境にいつもそこにいような。

 

でも、カーチャンのコンセントを抜く行為にだけは気を付けるのよな。

メリークリスマス。