カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

求められないなら去るべき

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自分が尊敬している数少ない人間のうちのひとりで、唯一尊敬している経営者、尚且つ、自分が大学で経営を学びたいと感じる第一のきっかけとなった経営者である人の話をする。初代横浜DeNAベイスターズの球団社長、池田純氏の言葉で最も印象的なもののひとつが

 

「僕は執着が大嫌い。」

 

再建・再生のプロとしてのプライドがあるからこその決断

 

(中略)

「僕は何事であっても“執着”するのが嫌いなんです。経営者として立場にあぐらをかいてしまったり、攻める気持ちを失ってしまってはダメ。だから筒香(嘉智)の気持ちが分かるんですよ。筒香は自分が成長するためにわざわざ“居心地の悪い場所”を求めてドミニカのウィンターリーグに行ったじゃないですか。僕も似たところがあって、最近、居心地が良くなってきてしまっている。こうなると執着が生まれてしまうんですよね。はっきり言ってそうなると面白いモノが創造できなくなってしまうんですよ」

 通常、がんばって成果を出し、立場を強固なものにすると、そこに既得権が生まれる。いつしか人はそれに執着し、保身に走り、クリエイティヴではなくなる。

 当然、池田氏はそれを良しとしない。自分はあくまでもターンアラウンドを持ち味とした再建・再生のプロである。ゆえに自分が手がけてきたものが軌道に乗ったときこそ、次のフェーズへ行くタイミング。また企業再建の観点から業績が上向きであれば引き継ぎにあたり支障ないが、もし業績が下向きになったときだと経験上、苦難を伴うことを理解している。

 

(上記記事より引用)

 

それでもっていて、自分のなかでの人生を、いや、組織にいるうえでの指針としている。

 

いつも、何かにつけて、

老害にはなっていないか?」

という思考を持つことを大切にしないといけないと思っている。

老害、という言葉にはもちろん多義的な意味があるが。

 

自分は、割と大したことのない人間だからこそ、必要以上に何か特定のものに執着するべきではないし、それでほかの人間に迷惑をかけてはいけないと思っている。

 

「求められるうちが華」なんて言葉があるが、逆に言えば「求められなくなれば害悪」なのである。

 

常に、現在の今ある最適かつ合理的な選択を組織は迫られるし、それに際して起こり得る様々な障壁を取り除かなければならない。そこで、外的要因における障壁ならまだしも、組織内における障壁でいちいち組織としての正しい前進を阻害されるべきではない。

 

自分の凝り固まった考え方で、周りの何かをせき止めていないだろうか?もしそうならば、自分は2択の選択を迫られる。一つは、自分の考えを改め、新しい環境への対応を行うこと。もう一つは、それで自分の価値観を捻じ曲げなければいけない、または自分の苦手な分野を無理してやらなければいけない。それなら、その組織を去る。この考えを、折に触れて常に反省して振り返らないといけない。そう思っている。

 

俺は果たして今、「求められているのだろうか?」

 

求められる、という言葉には、少し意図が足りないような気がする。「誰に?」という部分だ。

これは間違いなく、「その組織を中心的に運営している人間」であり、「一番報われるべき人間」に向けて。だ。

何よりも、その範囲も広くなくてはいけない。特定の一部の人間に対して喜ばしいような選択はそれは誠実さから欠けている。

 

自分は現在、さまざまな組織のなかに属し、なかには中心的に機能する核とする部分で生きていることもある。自分も所詮核の中の一部に過ぎないのだが、いろんな組織にいて、いつも言うことだが、自分がトップにいるような組織では大成できないし、自分が2番手にいるような組織はよくなると思う。それは自分がトップに立つ器でないことを自覚しているし、自分は意識しないと、執着してしまう、老害と化してしまう。だからこそ、自分は少し後ろからサポートする客観性がないといけない。そして何より、自分のような浅はかな人間がトップになれてしまうようなところは、所詮ダメなのではないか?これには他意はないし、気分は害されてもこちらもどうしようもない。むしろこちらのほうが不愉快である。

 

そんななかで、自分が何かしても、なるべく自分本位になりすぎないようにしないといけないらしいし、トップに立つうえで、ある程度人に任せて、自分は首を突っ込みすぎないほうがいい。自分は器が小さいから、よく人のこともついつい自分でやってしまう。そのほうが合理的だと思うからだ。しかし、それは間違いだ。自分がやりすぎる、それこそが老害だ。自分がいなくなれば、それをする人間がいなくなるし、自分が明日死ねば、すべては水の泡と化す。だからこそ、いろんな人がいろんな仕事を広くできる環境にないといけない。

 

そのなかで、もし、少しでもやることに不安がある、先駆者、先人の知恵を借りたい。そういったときに、もし、「特定の人物から、求められれば」応えてあげないといけない。いや、応えてあげたいし、そうあるべきだ。どうも世の中には、求められていないのに、おせっかいなのか、老害なのか、何故か過剰に接してしまいがちなのだと思う。それは上に立つものとして、先人としてはナンセンスだ。それが伝統となり鎖となる。自分はあくまで、フラットな人間でいなければいけない。なぜならば、自分は完璧な人間ではないから。この考えを時折忘れてしまいそうになる。けれども、凝り固まった考えは淀みを生む。

 

自分は自分のなかで、日々大切なものとして世界観であったり価値観であったりを主張するなかで、しっかりと変わらないといけない部分、改めないといけない部分はいつもどこかに存在しているはずなのだから、自分が正しいという考えに対して、いつも疑問符をかかげていくべきだ。

 

 

蛇足になるが、執着、というワードで。

自分は他人に執着しない、ということをよく言う。ただそれは単純に人嫌いな訳ではない。むしろ、他人、なんならいろんな人間、道行く知らない誰かさんにもしっかりと気を遣いすぎる性分だ。そういったなかで、人間性、という言葉の定義。

自分のなかで、執着が嫌いなのは、自分がある特定の人(や、人が複数集まったグループ)に執着しすぎることで、周りに気が遣えなくなるのが本当に嫌だからだ。

 

少し昔の話をすると、自分が帰り道友だちと列になって歩いてしゃべっていた時、後ろから邪魔そうにして不機嫌そうな通行人がなかなか追い抜かせないのを察するのが実に嫌だった。それの応用版で執着が嫌いになったと思ってくれていい。

 

人間としてのレベルが高い人間というのは、間違いなく多くの人に気が遣えるひとだろう。それは内輪に限らず、各方面の人間、知り合いでも不知り合いでも、好きな人でも嫌いな人でも。さまざまな人間に対して敬い、気を遣い、ネガティブな気持ちにさせない人間こそ、真の人間性レベルマックス野郎だと思う。そういった人間は、常によく求められるし、人として大成している。逆に自分のこと、もしくは自分の内輪で特定の一部しか気が遣えないなら、それはもう人間性として底辺だから、普通にそういう人と接していると疲れるし関わる気が失せるなあって思う。わかる?