"そつなくこなしたい"
「なぜ、有能な人間ほど、サラッとなんでもそつなくこなしてしまうんだろう?」
この古くからの畏敬を込めた疑問の答えは、案外単純だった。
- 自分が得意なフィールドでしか勝負をしない賢い人物であること
- 自分の努力を「醜い部分」とし、決して他人に見せないこと
だいたい、これらのどちらかだ。それはどちらでも自覚をしていないと、自分を俯瞰して評価していないとできない行為だし、それを尊敬するのは不思議なことではないはずだ。
有能な人間とは、どうして有能になったのだろうか?その過程より、
有能な人間は、どうして有能な人間たるのか、そう存在しているのか?
その結果のほうが、実は重要なヒントが隠されているのではないか?そう感じているから、それについて記す。
話が逸れるから、脚注として、事例を最後に記しておく。
脚注より
さて、話を戻すと、有能な人間とは、なぜ、「有能だ」という評価を得ているのか?
それは勿論、彼または彼女が、「有能である」というにふさわしい同等の功績を残したからだ。それはつまり、それ相応の能力を持ち、他者と比較して圧倒的に優位に立っているといって過言はない。
そうして、彼らは晴れて「有能」となったわけなのだが、それは一体どんな過程を経て得たものなのか?
それの多くは、偉人がそうであるように、結果論として、後発的に語られるもので間違いないだろう。
イチローは幼少期から天才と謳われていたが、彼のドキュメンタリー番組は、果たして彼の幼少期から放送されたのだろうか?というより、彼がプロアスリートとして活躍し、功績を残してから、後発的に幼少期のエピソードもドキュメンタリーで取り上げられているのではないだろうか?
彼は、努力を人に見せるのを拒むという。努力をしている姿はかっこ悪いから。
「努力」を過程と定義づけるのであれば、悲しいことに、努力というものは、結果が出てからでないと正しいか間違っていたかも分からないし、努力そのものを評価されない。
結果が思わしくなければ、「努力が足りなかった/間違った方向に進んでしまっていた」という評価を得られるのが悲しいことに社会の常だ。
「出来なかったけど頑張ったから偉いね!」というフィールドしか経験したことのない人間であれば、今の話は忘れてもらって構わない。
だから、結果が出る前に、自分の「努力」「過程」を大っぴらに晒してしまうということは、いかにリスクを伴うことかは想像に難くないだろう。リスクというのは、自分自身のブランディング過程におけるもの、カッコよさ、一貫性、強さエトセトラに関するものと考えてもらってよい。
だからといって、良い結果を残した時に、自分から努力の過程を見せびらかすような行為も浅ましい。努力の過程は、「後発的に」「第三者から」語られるからこそ、カッコよさが際立つものではなかろうか。
こういった話を進めていって、結論として、
「なぜ、有能な人間はそつなくなんでもサッとこなすのか?」
という疑問に立ち戻ると、彼らは見えない部分で "見せない" 努力を弛まず行っているから、なんでも得意にしてしまい、そのフィールドで功績を残すことで、なんでもそつなくこなしているように「ある側面で」そう見えるのだろう。そこに隠れた努力の過程は、後発的に語られるから、より彼らの有能さが引き立つ。
自分もそう在りたいと日々思うことはもう計り知れず。それでもどこかでカッコ悪い自分というものも露呈されてしまう。意識的なのか、無意識的なのかは露知らず。
ただ、何が言いたいかというと、ヒトは、「誰にも見せない部分」に深みがある者ほど、魅力的で、有能で、美しくて、推せて、素晴らしい、尊敬に値する高尚な人物であるということ。これだけは揺るがないのだろう。
自己表現の場が増えたような現代社会ではあるが、「本物の自分」というものを、あまりにも表現しすぎるのは、人間としての浅さに繋がってしまうようで、やめたほうがいいんじゃないの、って、そう自分のなかの天使が囁く。対し、自己顕示欲、承認欲求という悪魔が、自分を大きく見せたくなる。そういった葛藤の中に生きる人間というのは、あまりにも惨いような、せつないような。だが、それも人生なのだろうと思うこの頃である。
*1:
誰しも、小学校から中学校の頃、本を読みなさいと言われても言われなくても、幾つかの本を読んでいるなかに、ノンフィクションの伝記があったろう、それがエジソンでも、織田信長でも、イチローでも誰でもよいのだが、それはある意味での
「成功体験の結果論」でしかないのではないか?そう考えてみて欲しい。
彼らは確かに史実上で大きな功績を残した。贔屓目に観なくても、すごい人物であることには変わりはなくって、それを揺るがそうという気持ちには毛頭おこらない。
ただ、彼らの「結果」は素晴らしいものであっても、彼らの「過程」に関して言えば、それは唯一無二の過程であり、それが万物さまざまな事象に当てはまり、誰しもが同じことをすれば同じ道を歩めるか?それは違うだろう。
彼らは「成功したという結果があるから」その過程が評価されるのである。
もし、彼らが成功者でなかったのならば、彼らの努力であり、パーソナリティーであり、価値観でありは、果たして今同様の評価を得られているのだろうか?
エジソンは幼少期は勉強が不出来だったエピソードはあまりにも有名であるが、だからといって、今小学校で平均点を大きく下回っている児童が、「エジソンと同等の評価」を今されて正しいのだろうか?
ここで言いたいのは、「結果を伴っているからこそ、人格者は人格者たる権利を有する」ということである。普通に考えれば当然のことなのかもしれないが、このことを念頭に置いて欲しい。