カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

"そつなくこなしたい"

「なぜ、有能な人間ほど、サラッとなんでもそつなくこなしてしまうんだろう?」

 

この古くからの畏敬を込めた疑問の答えは、案外単純だった。

 

  1. 自分が得意なフィールドでしか勝負をしない賢い人物であること
  2. 自分の努力を「醜い部分」とし、決して他人に見せないこと

 

だいたい、これらのどちらかだ。それはどちらでも自覚をしていないと、自分を俯瞰して評価していないとできない行為だし、それを尊敬するのは不思議なことではないはずだ。

 

有能な人間とは、どうして有能になったのだろうか?その過程より、

有能な人間は、どうして有能な人間たるのか、そう存在しているのか?

その結果のほうが、実は重要なヒントが隠されているのではないか?そう感じているから、それについて記す。

 

話が逸れるから、脚注として、事例を最後に記しておく。

*1

脚注より

 

さて、話を戻すと、有能な人間とは、なぜ、「有能だ」という評価を得ているのか?

それは勿論、彼または彼女が、「有能である」というにふさわしい同等の功績を残したからだ。それはつまり、それ相応の能力を持ち、他者と比較して圧倒的に優位に立っているといって過言はない。

 

そうして、彼らは晴れて「有能」となったわけなのだが、それは一体どんな過程を経て得たものなのか?

それの多くは、偉人がそうであるように、結果論として、後発的に語られるもので間違いないだろう。

イチローは幼少期から天才と謳われていたが、彼のドキュメンタリー番組は、果たして彼の幼少期から放送されたのだろうか?というより、彼がプロアスリートとして活躍し、功績を残してから、後発的に幼少期のエピソードもドキュメンタリーで取り上げられているのではないだろうか?

 

彼は、努力を人に見せるのを拒むという。努力をしている姿はかっこ悪いから。

 

「努力」を過程と定義づけるのであれば、悲しいことに、努力というものは、結果が出てからでないと正しいか間違っていたかも分からないし、努力そのものを評価されない。

 

結果が思わしくなければ、「努力が足りなかった/間違った方向に進んでしまっていた」という評価を得られるのが悲しいことに社会の常だ。

 

「出来なかったけど頑張ったから偉いね!」というフィールドしか経験したことのない人間であれば、今の話は忘れてもらって構わない。

 

だから、結果が出る前に、自分の「努力」「過程」を大っぴらに晒してしまうということは、いかにリスクを伴うことかは想像に難くないだろう。リスクというのは、自分自身のブランディング過程におけるもの、カッコよさ、一貫性、強さエトセトラに関するものと考えてもらってよい。

 

だからといって、良い結果を残した時に、自分から努力の過程を見せびらかすような行為も浅ましい。努力の過程は、「後発的に」「第三者から」語られるからこそ、カッコよさが際立つものではなかろうか。

 

 

こういった話を進めていって、結論として、

 

「なぜ、有能な人間はそつなくなんでもサッとこなすのか?」

 

という疑問に立ち戻ると、彼らは見えない部分で "見せない" 努力を弛まず行っているから、なんでも得意にしてしまい、そのフィールドで功績を残すことで、なんでもそつなくこなしているように「ある側面で」そう見えるのだろう。そこに隠れた努力の過程は、後発的に語られるから、より彼らの有能さが引き立つ。

 

自分もそう在りたいと日々思うことはもう計り知れず。それでもどこかでカッコ悪い自分というものも露呈されてしまう。意識的なのか、無意識的なのかは露知らず。

 

ただ、何が言いたいかというと、ヒトは、「誰にも見せない部分」に深みがある者ほど、魅力的で、有能で、美しくて、推せて、素晴らしい、尊敬に値する高尚な人物であるということ。これだけは揺るがないのだろう。

 

自己表現の場が増えたような現代社会ではあるが、「本物の自分」というものを、あまりにも表現しすぎるのは、人間としての浅さに繋がってしまうようで、やめたほうがいいんじゃないの、って、そう自分のなかの天使が囁く。対し、自己顕示欲、承認欲求という悪魔が、自分を大きく見せたくなる。そういった葛藤の中に生きる人間というのは、あまりにも惨いような、せつないような。だが、それも人生なのだろうと思うこの頃である。

*1:

誰しも、小学校から中学校の頃、本を読みなさいと言われても言われなくても、幾つかの本を読んでいるなかに、ノンフィクションの伝記があったろう、それがエジソンでも、織田信長でも、イチローでも誰でもよいのだが、それはある意味での

 

「成功体験の結果論」でしかないのではないか?そう考えてみて欲しい。

 

 

 

彼らは確かに史実上で大きな功績を残した。贔屓目に観なくても、すごい人物であることには変わりはなくって、それを揺るがそうという気持ちには毛頭おこらない。

 

 

 

ただ、彼らの「結果」は素晴らしいものであっても、彼らの「過程」に関して言えば、それは唯一無二の過程であり、それが万物さまざまな事象に当てはまり、誰しもが同じことをすれば同じ道を歩めるか?それは違うだろう。

 

 

 

彼らは「成功したという結果があるから」その過程が評価されるのである。

 

 

 

もし、彼らが成功者でなかったのならば、彼らの努力であり、パーソナリティーであり、価値観でありは、果たして今同様の評価を得られているのだろうか?

 

 

 

エジソンは幼少期は勉強が不出来だったエピソードはあまりにも有名であるが、だからといって、今小学校で平均点を大きく下回っている児童が、「エジソンと同等の評価」を今されて正しいのだろうか?

 

 

 

ここで言いたいのは、「結果を伴っているからこそ、人格者は人格者たる権利を有する」ということである。普通に考えれば当然のことなのかもしれないが、このことを念頭に置いて欲しい。