カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

憎しみは憎しみでしか償えない -藤原竜也という俳優の凶器ー

 

22年目の告白?私が殺人犯です?
 

 

ついさっき、語彙というものは絶対的な力を持っていて、自分がもつ言葉の脅威はとてもちっぽけで、でもどこまでも残酷にも大きいものであることは痛感したばかりではあるのだが。

 

遅ればせながら、アマゾンプライムで観た。ずっと観たかったが、如何せん映画が苦手なこととか、プライム対象になるのを待っていたこととか、様々な要素があるなかで今がある。

 

"時効と遺族"この2単語に重い意図が募って、物語は展開していくことになる。

 

時効成立後、なぜ、曽根崎は公に立って、本を出版して、罪を償うことを考えたのか。その動機をずっと考えていた。視聴者である自分はいつの間にか、

「なぜ、殺人をしたのか?」という問いに深い疑問は感じず、

「なぜ、時効後に公に現れたのか?」

ということに執着してしまったのである。

それは、自分自身が大切な人間を事件で、他殺で失っていないからこそ、そう思ってしまうのだろう。それを自責することはあっても、責めきれないのは、多くの大衆は、そちら側のポジションにいるためだ。物騒な世の中と風刺されても、日本という国の殺人件数は世界的に見て圧倒的に低い。我々は、10数年前に起きた、秋葉原通り魔事件のことについて、どこまで記憶しているのだろうか?知ろうとしていただろうか?のど元過ぎれば熱さを忘れるともいうが、自分に直接関係のない事件であったり、殺人であったりは、多くあるうちの一つのゴシップでしかないのは、悲しいことに事実なのである。

 

しかし、それは一部で、悲しいことなのか、安寧することなのか、それはごく少数なのだが。その一部で、それを忘れることの出来ない遺族がいる。彼ら、彼女らは風化していく時のなかで、何が真実なのかを模索していくなかで、憎しみが生まれ、精神的窮地に追いやられていく。

 

よくドラマでも、裁判出廷映像で、遺族が被告に対し、

「殺してやる!!!殺してやる!!!!」

と、周りに制止されつつも必死に泣き叫ぶ姿が映し出されることがある。皮肉にも、殺人事件を起こされた被害者遺族は、その容疑者を殺し貶めるという発想でしか、相手に罪を償ってもらうと当然に思う一方で、それを致し方なしと黙視する大衆がいて、それを許さない法律がある。

なぜ、憎しみは生まれてしまうのだろうか?過失はともあれ、普通に人間が生きていれば、誤ってですら、人が人を殺してしまうことなどない平和な世の中なうえでだ。侵略戦争も出来ないルールがあっても、国内で、いや、個人対個人で憎しみは何かしらの火花が、何かしらの燃料にぶつかることで、大量の血が噴き出る。

憎しみは、憎しみから連鎖して出来上がったものであるのではないだろうか。その大小に関わらず、人が抱えきれなくなったものはあまりにも大きくなり、新たな憎しみを生んでいく。その連鎖は、悲しいくらいに美しい。憎しみと、そこに空いたぽっかりできた黒い穴は、我々は何で埋めていくべきなのだろうか。幸せで埋められるものなのだろうか。それとも。

 

 

自分は先述のとおりほとんど映画をみない、テレビも観ない。それでも、藤原竜也という俳優は本当に好きで、なぜかと、彼は「人間の汚れた部分」を演じるのが本当にうまいと思う。それもあまりにもそのままを体現しているから、背筋が伸びる。

 

作品は変わる。彼が『DEATH NOTE』の映画で、夜神月役として主演した際、あまりにも有名なラストシーン。彼はキラとして倒れた時、そして彼が初めてノートに触れた時、記憶を消去した時、ノートに再び触れ記憶を蘇らせたとき、彼が共通して心の底にあったものは、それもまた間違いなく「憎悪」なのだろう。憎悪のなかでは我々はいつでもどこでも正義のヒーローになるのだ。それを肯定するのも否定するのはあくまで大衆であり、その印象操作を行うのもまたメディアだ。

 

上にあげた2作品であまりにもいたく共通しているのは、「大衆」と「マスコミ」との関係性と一連の「事件」である。

この三すくみのなかで、藤原竜也という俳優は、時にはカリスマ性を顕わにし、時には自らの憎悪を正義の名のもとに突き進み、社会すら変えてしまう。その威力、威信は明らかに狂気じみている。

 

 

最後に問いたいのは、正義とは何なのか。

正義は誰が、どんな理由をもとにつくったのか?

それがもとは憎「悪」だとしても?