カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

決定的な力点があるのは目的であるか手段であるかの考察事項

最近よく観ているYouTuberが、なぜYouTubeを始めたのか?という問いに、

「楽に金儲けができるから」

という回答をしていたのがここ最近の印象的な事実だ。それで、事実本当に金儲けをしてるのだから、素晴らしい経営理念の実現だとひしひしと感じる。

 

成功している人間の本質的な差は何なのか。そういったことを考える中で、まず第一論点として考えられるのは、目的と手段の的確な定義づけにあるのだろうと推察している。

 

自分のなかで成し遂げたい目標があり、それに向けて適切な目標を立て、行動を管理し、そして遂行へと導いていくのは確かな道筋に外ならず、多くの人間はそれで成功を収める。

 

一つ例を挙げていく。YouTuberの話をしたからには、HIKAKIN氏についての考察をすべきだと思う。彼はYouTuberとしての礎を確立させている、商品紹介や、やってみた系動画を主に投稿し人気を博しているが、彼は果たして最初からそういった動画を投稿していたのか?

 

答えはノーだ。彼は就職し、上京しながら、ビートボックスを極めたいと感じながら動画を投稿した。それはプロのビートボクサーとなるために、ビートボックス動画を投稿した。

時は経ち、その動画の評価が得られ、人気になっていく過程で、彼の本質的な部分としての源泉が出来上がった。ビートボックス動画に対する需要から派生されて、それを奏でる彼自身のライフスタイルやパーソナリティにも興味が湧く視聴者層が一定数存在していたという事実である。

彼は、ビートボックスで大成したいという当初の目的があった一方で、自分の生活について、動画を作成編集し、投稿することで、一定の人気をまた得て、それでビジネスが可能であるのではないか。というビジネスモデルの転換を行っている。これが功を奏し、現在に至るまで日本のトップYouTuberとして今も第一線に君臨している。

 

この事例で、いつも自分が考えていることは、

「彼は幸せなのか?」

YouTubeは、自分がビートボックスで有名になるため、という目的のため、それを投稿する媒体としての手段でしか無かった筈だ。それが、ある特定の外部環境の変容であるとか、潜在的需要の発見により、彼は、YouTubeそのもので有名になっていこうという目的にシフトした。現在、彼がビートボックスを使うことはほとんどなく、動画の最初の挨拶の一部分としての役割が大半を占めている。たしかに過去に、有名アーティストとのコラボレーションの実現、数々のメディア露出による演奏披露といった実績はあるのだが、それは結果として過去の遺産であるわけで、現在ビートボックスの活動を精力的に日々邁進しているのか?ということには、一一般人からみたら謎が深いままである。ましてや、もしかしたら今彼のチャンネルを観ている視聴者、特に彼の視聴者層である就学児童は、彼がビートボックスで世界的に有名であったことを知り得る者はどのくらいの割合でいようか。

 

だがしかし、彼は先ほど自分が提示した疑問には恐らくイエスと答える。彼は間違いなく幸せであるし、そうでないと現在にわたりこの活動継続は考えられない。自分が当初求めていた地位であったり、目標というものは、様々な要因によって、目的が根底から覆されることや、手段として扱っていたものそのものが大きな目的の一因となることがあるのは間違いない。

 

そういった例をあげて、実は少し話をずらすが、このように、自分の目標であったり目的であったりは、自分が主観的に定義を確実にしたつもりでも、世間一般から見れば、それは違った目的があるのではないか?と解釈される、要は一つである手段と目的のつながりが多面性を同時に持ち合わせている、という概念についてである。

 

自分について、よく誤解されることなのだが、周囲が自分に抱く印象ほど、自分は有名になりたくないし、目立とうとも思っていない。これを言うとなんだか辛気臭い顔をされるからあまり言わないように慎む、なぜこれを慎むのかという矛盾に失笑を隠せないのだが。

 

自分は、役職柄、であったり、能力柄、であったり、様々なご縁の傍ら、ということもあって、何かと目立つ役割であったり、人の前にたつことであったり、何かの代表になったり、そういうことをすることが多い。なぜ、そんなことをするのか、いや、結果的にしたことに史実上なっているのか?と自問自答して、何個かの答えが出た。

 

別にやりたくてやるわけじゃない。そうやって結局組織として、全体として、物事がまわらずに滞っていくのが何よりも不合理なのだ。中学の時、選挙が無いとどうしようもないから、と言われ生徒会に立候補したのは誰だろうか?誰もいないから困っている、と言われて代表役に推薦され手を挙げたのは誰だろうか?自分のいた組織を思い起こしてほしい。その時、必ずしもその手を挙げた人間は、心から代表であることを誇っていただろうか?自信と意欲に満ち溢れていただろうか?自分は効率重視で、それは個人ではもちろん、自分が属する組織にも求める。それが滞りを見せ、自分が改善できる自負があるなら自分が前に出るほうがいいなら出るのは合理的選択だし、自分より意欲ある者が前に出るならそれをサポートするのが合理的だ。しかし、自分が組織のトップに立つのは、自分の器が小さいゆえに適さない、ということは昔思い知っている。だからこそ、自分がでしゃばるのは、そうしないとどうしようもない場合に限られるのであって、傍からは、こいつはいつも出しゃばりやがて、という風に感じ取られていても、自分個人の言い分としては、やむなし、に他ならないのである。

 

これは、非常に微妙な解釈違いが生まれそうだが、自分は本質的には、目立ちたいわけではない。自分は、自分の感情を表現するのが好きで、自分というものをうまくデザインし表出する創作活動が好きなのだ。自分というものを表現したい、という感情と、目立ちたいという感情には、自分の中では、近似しているなかにも、決定的な相違がある。こういったロジックが面白い、だとか、こういった仕掛けを表現できたら面白いとか、そういったことを自分の脳内で思考して、それを表出している。以前友人に、お前のボケは自慰行為だから、拾ってもらおうというツッコミへの配慮が欠けている。という指摘を頂戴したが、それは妙に的を射ている。自分の表現というのは史上最強の自己満足であって、それについて外野から、他人からとやかく評価されたいだとか、好きになってもらいたいだとか、そういった承認欲求は別枠の感情だと定義しているのだ。別に承認欲求が無いわけではないのだが、それは、それ。これは、これ。という風に、自分の中で線引きができているからこそ、自分は自分のしたいようにいろんなことを考えて表現して、その行為自体が快感なのであって、それに対する評価や批評については正直二の次なのだ。そういった意味では、自分はYouTuberをはじめとした、現実世界とは一線を画した動画投稿者になるのが適格なのかもしれない。それが確信に変わったら、自分はそうなるだろうと推定している。

 

 

口酸っぱく言うのは、自分はそこまで目立ちたいタイプではない、という主観的意見と、それでもなんやかんや目立ってしまう、という客観的評価の差である。この主観認識と客観事実の差に、何か経済的成功のカギが隠されている一例は、HIKAKIN氏でのケースで紹介した。同様に、有名な話であるが、多くの企業がブランディング戦略において、自分たちのブランドアイデンティティと、一般顧客のブランドイメージのズレを認識するといううえでの企業活動もそれについての活動の一部に包括されるのではなかろうか。

 

そういったこと全般に、何かこれから新しい舵取りをするうえでのヒントはないのだろうか?そう考えてやまない。大衆というのは、十人十色という言葉がある一方で、大まかな傾向があり、特徴があるはずで、それをつかみ、自分の定義との差を認識したうえで、自分自身が新しい舵取りをするのか。大衆がこちらにくるように誘導させるのか。前者については、自分の核となるものについては忘れないでいたい。後者については、自分が果たして本当にそれを遂行するだけの影響力、権力、そういったものをすべて意味に含めたPowerというものがあるのか。そういった側面もまた考察せねばならないのだと思う。