カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

在りたいのか、成りたいのか。

自分はある意味、変わらねばならないのかもしれない。

いろんな意味で。何かを許容する心であったり、何かを厳しく見る心であったり。

 

自分が正しいとは限らない世の中であるから、自分が自分の倫理観の名の下に正しくないと判断したら、自分は変わらねばならないはずだ。そう感じた。

自分は自分自身の変化を許容できないといけない。変化は時に魅力的で、時に敬遠してしまう。それに耐え得る精神力が無いとやっていけない。変化を感じ、自己が適応することが正しいはずだが、あまりにも変わりすぎて自分自身を見失ってしまうのがもっともむごい。そのバランスがとてつもなく難しい。

 

そういったなかで、自己の核(この表現が本当に大好きだから多用してしまう)が出来上がらないうちに、大衆化して仕舞いたくないものであって、人生頭から尻まで尖っていたい。しかしながら、それを良しとしないのは社会であり、自分以外の何かである。

 

やらないといけないことって実は割とたくさんあって、そのなかでもやりたいことっていうのは重なっていて、それが正しい方向に努力されているのかはわからない。いや、わかってもそれは結果論で、世の中にはごまんと綺麗事で成功体験を並べた自己啓発の類いが群がっている。

 

自分の現在の座標と、将来に向けた軸を鑑みた時に、果たして今が正しく生きているのか、それが分からない。だから、右往左往してしまうのかもしれない。

 

自分はどうなりたいか、というよりは、自分はどうありたいか。そういった生き方をここまで続けてしまっているから、どうなりたいのか?という問いに戸惑ってしまった。個人的に。自問自答形式なんだけど。

自分がどうありたいか、その突き詰めた結果論に、自分がどうなりたいかの結論があると思っていた。ただ、自分がどうなりたいか、という問いは、割とすぐ回答しないといけないもので、それが難しいと感じるのは自分だけだろうか。

 

話を昔に遡れば、自分は高校の文理選択で

 

「国語より数学が好きだから理系、物理より生物が好きだから生物選択、地理より歴史が好きだから日本史選択」

と言って高校は理系を選択し、結果的に入試を終わってから文転する離れ業を仕出かした。将来どうなりたいかよりも、今やりたいことばかり優先してきた人生のように思う。やりたいことをやれば、それは楽しいし、無駄に要領が良いせいで、何でも平均以上くらいには出来てしまった。飽きっぽい性格も相まって、今では思い起こせば色んなことを満遍なくやっている気がする。それは逆に言えば一つのことに極めるような事をした人生で無いということだ。

 

周りからどう思われているかは知らないが、正直自分には突飛な才能はないと自覚している。擁護されても譲れない。好きなもの、興味があることに首を突っ込んでそつなくこなしてはい、さようなら。そういって何かに極めて取り組もうとしたことって実は数える程しか無いんじゃないかな。だからこそ、一つのことに真剣になったり、ある特定の分野に異常に愛を傾けたり、詳しかったり、一つの分野で遺憾無く才能を発揮している人間を見ると、羨望これ一興、という感じなんだよね。

自分は何かに拘るべきなのか?という葛藤は昔凄いして、迷いに迷った挙句、

「こだわらないことにこだわる」というある架空の高校生の信条をお借りして使っているわけである。

そしてたまに、そう、それがたまたま今日、思うんだよね、自分は変わるべきなのか?こだわるべきなのか?この今が果たして最適解なのか?って。

 

 

そういったことが書かれているのは、『遠回りする雛』の「手作りチョコレート事件」だから、是非短編で面白いので読んでやって。