カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

ハッピーエンドは冷たく痛い

俺結構アニメ好きでよくみるんだよねって話をすると、大抵

「オススメのアニメなんかあります?」

って言われるのね。その人のフェチとかそれぞれあってこういうのって一概にどれが最強かとかは答えることって難しいことは自明なんだけど、俺は毎回その時に、「氷菓」って答えてるの。

 

別にアニメが苦手な人でも、ぜひ原作小説でも読んで欲しい作品で、この世界観を愛しているし、人生で出会えてよかったと思える数少ないものの中の1つだし、自分を確実に形作ってくれた最高の作品。

もうアニメも数年前に終わってるし、アニメ以降の原作も2〜3冊続いてて、密かにいつも続編を待っている作品。アニメならいろんな動画サイトで配信してるし、ぜひ見て欲しいな。

 

ネタバレをしないようにいろんな話をします。

 

 

"わたし、人が亡くなるお話は、あまり好きではないんです。"(千反田える)

 

 

ここまで、ハッピーエンドが出てこない学園ミステリーってあるのかなって思う部分がある。

青春って、必ずしも薔薇色ではないし、必ずしもキラキラして楽しいものばかりではない。いい時もあればそれはもちろん嫌な時もあって、そういったものごとの葛藤に苛まれながらも、気づけば時が経ち、それらは過去の記憶として美化される。これはいい思い出も悪い思い出も結局は美化されてしまうから面白い。黒歴史なんて自虐風に語る悪い思い出も、ネタにできる時点でそれはもう美化できるのだと。

 

小学校の時はソフトボールのチームに入っていて、その時の監督さんの言葉は実は今も覚えているものがあって、

 

『勝った時の嬉しい気持ちなんて、結局すぐ忘れちゃうんだ。でも、負けた時の悔しさって意外と忘れなくって、後になっても鮮明に忘れなくって、負ける瞬間なんて昨日のことのように思い起こされるんだ』

 

小さい頃の自分には分からなかったけど、いろんな経験をして、それがいたく痛感された。特に前言った高校の部活のこと、リレーでバトンが落ちた瞬間なんてそれはもう今も思い出される。

 

いろんな部分がハイライトとしてフォーカスされるなかで、それが苦く、それでもその苦さが嫌に心地よく、人生を生きる上での大きな糧になるのは何故だろう?でも、それって自分の最強のコンプレックスになるし、それって、自分の人格を形成する大切な要素になるのは確かなんだよね。その心理的作用の過程にある種非常に興味がある。

 

ハッピーエンドばかりではないから、人生は綺麗なんだと思う。

 

 

"やらなくてもいいことは、やらない。やらなければいけないことは、手短に。"(折木奉太郎)

 

 

能動的に生きること、活動的に生きること、自分らしさをだして積極的に生きること、それは果たして自分本位な生き方なのだろうか?どんな時も、自分の人生、主人公は自分に他ならないと思っていた。今もそれで疑いない。でも、仮にそうでなかったとして、自分は誰かの脇役でしかないとして、それを自分は許容する事ができるのか?

 

 

"彼はどうも、期待という言葉を軽々しく使い過ぎる。自分に自信のある人間は、期待なんて言葉を使っちゃいけない" (福部里志)

 

 

人は人であるがゆえ、比較を迫られ、自分の劣等感に絶望をしなくてはいけない生き物だと思う。古典部シリーズ『クドリャフカの順番』(シリーズで言えば3作目)において、裏テーマと勝手に俺は感じているが、

「才能と期待」

という言葉の定義。それを考えさせられる。多分一生、世界で一番好きな小説は何?って言われたら、自分は『クドリャフカの順番』と言うに違いない。人は何故か絶望に瀕した時に、美しく、強くなるんだなと思う。逆に言えば、自分に絶望できなければ、本当の意味で美しく、強くなれないんだなと信じて疑っていない。