カプチーノ現象

内向的自己回帰型排斥主義OL

人間関係に悩む人を見るたびに思うこと

小学校に入学して最初に歌う歌って何だろうな?って考えてだいたい最初に思いつくのは、「1年生になったら」なんじゃないかな。

 

1年生になったら、友達100人できるかな

100人で食べたいな、富士山の上でおにぎりを

 

6歳児が100人総出で富士登山に挑戦しおにぎりを食べることが物理的に可能なのかはさておいて、我々は小さい頃から、「友達100人できるかな」にあるように、友達を沢山作りたい、沢山の人と仲良くなりましょう。そういった貞操観念のもとに教育され成長し今に至る。

 

今現在、我々はその歌に沿って友達100人できているのか?

 

それはもう、LINEの友だちは300人を超えてるから、余裕で達成してますよ。友達100人できるかなの歌を歌った時、幼少期の自分は健気にも、友達の名前を一人一人指折り数えて100人に届くように頑張って努力したものだ。

 

まあ、友達は100人なんてなかなか多いことは言えない。結局は友達は限られて100人なんていたら多い方で、気づけば連絡取り合わなくなるし、物理的にも心理的にも距離が広がれば、なかなか会って話すことも無くなり、悲しくも儚く関係性というものは拙くなってしまう。だからこそ、一期一会ではないが、一瞬一瞬の出会いを大切にしようと、そういった教訓があるのはどこかの本で読んだ。

 

ただ、これを逆に言えば、嫌な感情を持ってしまう人間と関わるのも、人生という長いスパンでみれば、ほんの一部でしかないのだ。悲しいことに。あんまり好きでない人とか、たるいなあと感じる人も、そこで、スッとうまい距離感をとって逃げて仕舞えば、気づけば彼、彼女との関係性は絶たれてしまうようだ。そんな相手も、人類何十億のなかでの1人でしかなくて、大した損害ではない。

 

人はどうも、どうしても、自分の見てる世界がすべてになってしまうし、どう頑張っても主観的になってしまうから、今ある一瞬のコミュニティを絶対としてしまうから、仲間はずれとか、ぼっちとか、ハブられるとか、そういった事柄に敏感になってしまうのは解るし、それらが勿論無い方が明らかに幸せに決まっている。でも、そんな関係ができてしまうコミュニティなら、抜けて仕舞えばいいし、関わらなくして仕舞えばいい。例えばそれが学校とか、抜けられないコミュニティの中なら、早く時間が過ぎるのを待っていればいいし、ほかの組織で、自分を認めてくれる場所を探す努力をすればいい。自分を認めてくれるような組織体は、流石にこの広い世界のなかに1つくらいはあるはずで、人間はどうもたった1人の人間にでも、キミが一番だ、大切だって認めて貰えれば、信頼して貰えば、それだけで人生幸福度はどうも高まる。

 

実にシンプルに言えば、好きな人を彫り好んで関わればいい。嫌な人間関係なら最小限に愛想笑いして関わればいい。好きな人にはちゃんと好きと伝えて好き好きアピールして関わればいい。人間は意外にも敏感な部分があるから、そうしていけば自然と周りには自分の好きな人は集まってきてくれると信じているし、人間関係においてストレスを感じることは少なくなるはずだ。

 

ただ、世間体だとか、生き方、世間の渡り方とかはしっかりと体裁を保つ必要があるのは確かだ。そことのバランスの取り方は最重要課題ではある。

 

1人の時間を大切にして欲しい。孤独は辛いか。孤独に強くなければ、多分今よりもっと人を慈しむことが出来ない。孤独が辛いと思うけど、それに耐えないと人間として深みが出ないし、より大切な人を孤独に感じさせないようにすまい、と愛する感情に深みがきっと出ない。

 

1人になって、自分について考えて、客観的に物事を見て、自分について深く深く問いただして生きていくこと、自分について考える、内向的なソレは、たしかに自分の生き方や価値観を成長させることができるから、もしも、対人関係について嫌になってしまったら、一旦1人になってみればいいよ。自分を見つめ直してからこそ、わかること、勿論それは自分について、他の人について、好きな人について。そんなわかることがあるからこそ、もっと人間関係について真摯に向き合うことができるんだと思う。

 

人が嫌になったら1人になる。覚えておいてな。